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民研・教育運動史部会


教育運動史部会にようこそ


このブログは、和歌山民研教育運動史部会で運営しています。

メンバー 
楠本一郎(代表)森 教二 加藤元昭  岡本房雄  雑賀光夫
大松弘明(民研事務局)

和歌山県の民主的な教育運動を発掘するしごとをしています。これまで、和歌山の教育運動の遺産を「解題」して発表してきました。

2019年5月2日に開いた部会で、この「ブログ」を開くことが了承されました。ブログ編集の作業は、当分、雑賀が担当します。データーが手に入ったものからアップしていきますので、ちぐはぐなものになりますが、しばらくはご容赦ください。


ご意見は saikam@naxnet.or.jp 雑賀にお寄せください。

なお、このブログの投稿日付けは読んでいただきやすいように(最初のページがトップになるように)勝手につけています。

なお、部会の論議を経ていませんが、こちらも参考にしてください


個人実践集
kokuminkyo.exblog.jp

国民教育運動と共闘の展開

kokumin111.exblog.jp

いじめ 不登校 体罰








# by minkenundousi | 2020-05-02 16:41 | Comments(0)

お宝文献解題

お宝文献「解題」のはじまり
 部会の作業は、「お宝文献」を拾い上げることからはじまりました。3年前のことです。
 

和歌山県の教育運動文献一覧と「解題」の発表について

和歌山民研教育運動史研究部会は、二〇一三年三月一九日に発足しました。県内の

民間教育運動を調べていこうということになり、その源流である紀南作文教育研究会

から始めました。

それから三年余り、部会は三十数回になりました。一九五〇年代から七〇年代にい

たる民間教育運動をみていくなかで、その担い手がその時どきに書いた、実践や運動

の記録、さまざまな動きに対する批判的コメントなど、和歌山県の教育運動の「宝物」

ともいうべき文献に触れることができました。

これらの文献はみなさんにお読みいただきたいものですが、今回そのために、文献

一覧とともに、その中から選んだ文献の「解題」を発表します。とりあえず、『民研

だより』に二、三回の掲載の予定ですが、今回はその第一回となります。ま

また、一覧で紹介した文献を読むことを希望される方は、民研にご連絡ください。

最後に、民研教育運動史研究部会のメンバーを紹介します。

岡本房雄、加藤元昭、楠本一郎、雑賀光夫、森 教二(アイウエオ順)  

大松弘明(民研事務局)

戦後和歌山県教育運動史・文献名一覧

──宝物を探す──

・藤田五与「読み書き能力調査の報告」(『教師の友』2号、19511月)

・藤田五与『小説・青年教師の日記(1951年)』(後に発行されたもの)

・北又安二・川口真治「責善教育2年の歩み(耐久中学校の実践記録)」
『部落』第
28
号(195112月号あるいは19521月号?)

・「有田作文の会が生まれるまで」(『窓』19531月)

・杉山守「水害と闘う子どもと教師」(『教師の友』1953年9月号)

・山村慎之助・在田寛「共同報告・水害による収奪と抵抗」『部落』第50号(19541月)

・真鍋清兵衛「解放教育の基盤と内容──少し理屈っぽい話」
(『紀南教育』
16
号、19542月、『部落』195456月号)

・佐藤昭三「未解放部落の子ども会」(『教育』19548月号)

・金子欣也「(全同教第4回大会)第5分科会(作文教育)」
(『部落』
61
号、19552月)

・出羽淳一「朝来村の調査報告(遺稿)」(『教師の友』195511月号)

・山本正治「未解放部落の実態と解放運動について
──特に
7
18水害を契機として提起された諸問題──」(『経済理論』195511月)

・佐々木賢太郎『体育の子 生活体育をめざして』(新評論社、1956年)

・浜本収「マンガから出発した集団指導の実践」
(『紀南教育』
26
号・19563月、『教師の友』19566月号)

・朝来中学校・和歌山県教育委員会指導課
『責善教育資料・誰でもできる責善教育』(
1957
年)

・三上正良「勤評闘争の積極的意義──和歌山・高知から学ぶ若干の問題」
(『教師の友』
1958
910月号)

・真鍋清兵衛「眠れる流れをひびかせよ──紀南作文教育研究会の歩み──」
(『部落』第
110
号、19594月号)

・真鍋清兵衛「紀南作文教育の十年間」(『部落』第140号、19619月号)

・村上五郎「県教委の新しい留意点を読んで」(1961年)

・和歌山県共同研究者集団『国民教育運動と共闘の展開』
(日本教職員組合、
1962
年)

・小川太郎「生活綴方と同和教育」(『作文と教育』1963年)

・「御坊小学校の職場実践」(『1964年度・国民教育運動特別分科会報告書』

・県サ連協『第5回和歌山県民間教育研究集会集録』(1965年)

・宮本武「差別に立ち向かう十人の子どもたち」
(『県サ連協第6回集会集録』
1966
年、『発達障害の根っこをさぐる』1992年)

・御坊小学校『学年新聞“大地”』(日本機関紙協会、1965年)

・笠松浩二『先生のおおきな手──子どもに学ぶ教師の生きがい──』(1966年)

・藤田五与「純民間のガン固さを守って15年」
(『作文と教育』
1966
5月号)

・県サ連協『第6回和歌山県民間教育研究集会集録』(1966年)

・藤田五与「和歌山県民間教育サークル連絡協議会の成立について」
(和歌山民研『所報』第
4
号、19676月)

・和歌山県教職員組合『和教組20年史年表 1945年~1966年』

・県サ連協『第7回和歌山県民間教育研究集会集録』(1967年)

・橋本敦「和教組大阪高裁無罪判決の意義と問題点」
(和歌山民研『所報』第5号、
1968
11月)

・山田昇「和教組勤評裁判高裁判決」
(和歌山民研『所報』第5号、
1968
11月)

・『全書国民教育5・地域の学校と生活』(明治図書、1968年)

・『全書国民教育7・地域における教育運動』(明治図書、1969年)

・中山豊「Aちゃんのことから」(『紀北教育』37号、1969年)

・藤田五与「和歌山県の民間教育運動」
(第
10
回和歌山県民間教育研究集会基調報告、1970年)

・日本作文の会編『子ども日本風土記─和歌山編』(1971年)

・佐々木賢太郎『新版・体育の子 生活体育をめざして』
(新評論社、
1971
年)

・山本正治『和歌山県民主主義運動史覚え書』
(和歌山大学経済研究所、
1971
年)

・西滋勝「和歌山の同和教育運動史年表」(『部落問題研究』第31号)

・西滋勝「紀南作教二十年に思う」(『別冊・紀南教育』19732月)

・藤田五与「和歌山県における民間教育運動史の試み・その1」
(『和歌山の教育』第
3
号、1973年)

・藤田五与「和歌山県における民間教育運動史の試み・その2」
(『和歌山の教育』第
4
号、1974年)

・西滋勝『資料・和歌山県における同和教育方針・手引』(1974年)

・紀南作文教育研究会『真実の教育をめざして』
(「紀南教育」の創刊号〜百号の主張集・
1974
年)

・杉山守『誰にもとりくめる同和教育』(1975年)

・藤田五与「和歌山県における民間教育」
(冬の集会報告)・(『和歌山の教育』第
8
号・1975年)

・西滋勝「和歌山県における同和教育観の変遷と問題
──主として同和教育方針・手引書からの素描──」(
1976
6月)

・紀南作文教育研究会編『生きていく喜びを育てる教育』(1976年)

・藤田五与「私的な和歌山県民間教育運動史の試み」
(『教育運動史研究』第
4
号、1977年)

・座談会「戦後和歌山における教育運動」
     (『教育運動史研究』第
4
号、1977年、和歌山11人の発言あり)

・河原尚武「生活綴方的教育方法に基づく教育実践の思想
        ──紀南作文教育研究会を中心として──」
(『戦後部落問題の研究・第5巻』
1978
年)

・谷口幸男「和歌山県責善(同和)教育運動史」
    (『戦後部落問題の研究・第5巻』
1978
年、増補版1984年発行)

・機関紙協会編・和歌山勤評闘争の記録編集委員会『和歌山勤評闘争の記録』
          および『同(別冊)』(
1979
年)

・西滋勝「責善教育創設に関する考察」(197910月)

・村上五郎『ある教育長の回想』(1981年)

・藤田五与「小川太郎先生と生活綴方の思い出」
(『月報』第
16
号、19817月)

・東上高志『人物でつづる戦後同和教育の歴史、上巻・下巻』
          (
1982
年、部落問題研究所)      

・池田孝雄ほか『子どもの問題発言について』
(和歌山県教育研究所、
1983
1月)

・楠本一郎「7・18水害から30年、救援隊の思い出」
         (『機関誌わかやま』
13
号、19837月)

・山田昇「御坊小学校の教育に学ぶ」(1984年、執筆1960年代後半)

・雑賀光夫「教育研究・実践の発展のために」(『月報』37号、19844

・佐々木賢太郎『子どもたちの全面発達と体育』(地歴社、1984年)

・岩尾靖弘「体罰問題について」(『和教時報』1984825日号〜
198525日号、岩尾靖弘遺稿集『ロマンを語る』1991年)

・日本科学者会議和歌山支部竜神調査団・編著『過疎山村と民主村制への道』   

・佐々木賢太郎『体育小話・101話』(1986年、紀南保体研)

・楠本一郎「教育内容行政の密室性の打破を」(『教育』19868月増刊号)

・藤田五与「和歌山における同和教育と生活綴方」
(『教育』
1986
11月増刊号)

・和歌山県教職員組合『和教組40年史年表(Ⅱ)1967年~1986年』

・民研『月報』77号、19878月、(特集・教育サークル活動の発展のために)
          市川、栗岡、田所、笠松、楠本の5人が執筆。

・楠本一郎「いまこそ新たな意気ごみで、学力問題へのとりくみを」
          『月報』
79
号、198710月号

・山本正治『統計学と民主運動』(山本正治追悼誌刊行会、1988年)

・雑賀光夫「和教組の70年代から80年代へ」(1988年、掲載誌わからず)

・西滋勝「責善教育の歴史と教訓」
(『教育学研究集録 西滋勝先生退官記念』
1989
年)

・山田昇「『月報』100号に思う」(『月報』100号、19897月)

・楠本一郎「『月報』創刊のころ」(『月報』100号、19897月)

・岩尾靖弘「『月報』40号からのこと」(『月報』100号、19897月)

・岡本佳雄『デンスケの教育論──せつなさへの共感──』(19898月)

・和歌山県国民教育研究所編『子どもの問題発言─その教育的解決をめざして─』
           (
1990
2月、部落問題研究所)

・藤田五与「生きていく喜びを育てて」(『作文と教育』19915月号)

・茂野嵩『不死鳥──占領下和歌山の労働運動年表・覚え書』(1991年)

・和歌山県国民教育研究所・障害児研究班『発達障害の根っこをさぐる』(1992年)

・座談会記録『民主教育との出会い』(和教組西牟婁支部・19923月)

・和歌山県国民教育研究所『同和教育の見直し──子どもの人権が生きる教育』
          (
1992
11月)

・宮川新司・楠本一郎「和歌山県の教職員組合運動と同和教育──和教組運動を中心に」
          (『部落問題研究』
136
号、19963月)

・座談会「勤評闘争・和教組結成五十年を迎えて=その1」(『月報』179号、19962月)

・座談会「職場のたたかいをつみ上げて全国闘争へ・和教組結成五十年を迎えて=その2」
         (『月報』
184号、19967月)

・和歌山県教職員組合『あの頃あのたたかい 和教組50年写真集』(1996年)

・戦後教育史研究グループ(中村・出水)『和歌山県戦後(占領下時代)教育史』(1996年)

・楠本一郎「教育の定期誌の発展を願って
──『季刊・和歌山の教育』の経験をふりかえる──」(『月報』
240
号、20013月)

・松井紀子「父の歩んだ戦後の道のり」(『命燃えて 北川宗蔵生誕100年』2004年)

・石田智巳「紀南作教の体育教師・佐々木賢太郎」(2004年)

・まつい・のりこ『あの日の空の青を』(2005年)

・小林史郎『有田に生きて』(2009年)


 

# by minkenundousi | 2020-05-01 16:54 | Comments(0)

岡本房雄・井関奎一による「解題」

西 滋勝

テキスト ボックス:  「部落問題が提起する教育課題と解決への展望」

 西滋勝「部落問題が提起する教育課題と解決への展望」は、雑誌『部落』の一九七六年五月号に掲載された後、手を加え、『部落解放の展望』(「国民融合をめざす部落問題全国国民会議」一九七六年九月)に掲載された。 

 七〇年代初期、「同和教育とは部落解放にかかわる一切の教育活動」(東上高志)との定義が一般的であった。この定義では、これを受けて氏の定義のもとで話し合われてきた。しかし、この定義では、「同和教育の観点から」として、音楽や算数なども同和教育として論議されることもあった。

それに対し、西は「部落問題が提起する教育課題にこたえる教育的いとなみ」と部落問題に焦点づけて提起したのである。西はその定義に際し「あえて定義しなければならないとすれば」とことわりながら、「今日部落問題が提起する教育課題が具体的に何であるかをあきらかにし、民主的な教育(本文では傍点)のとりくみのなかにどう位置づけるかということが重要なのであって……、○○教育という特別な名称でよぶか否かは第二義的な問題」だとしたのである。

 この定義により、「部落問題の提起する教育課題」が明確になり、和歌山県下の各学校現場において同和教育に関する論議が深められた。ひとつは「長期欠席・不就学の克服」から、新たな課題として「進路保障の課題」へと明確になった。 もうひとつは国民共通の課題として「部落問題についての正しい理解、科学的認識を身につける課題」である。

 「戦後、とくに六〇年以降、部落のかなり急激な変貌とそこから提起されている教育課題の大きな変化が起こって」いる。このような認識にたつ国民的融合論に基づく同和教育は、私たちにとっても課題解決への展望と同和教育実践の方向性を指し示した。新しい同和教育の課題が明確になったので、和歌山では同和教育運動・実践と同和教育行政の取り組みに大きな影響を与えた。国民的融合論が提起されて既に四〇年を超える年月がたつが、この論文は国民的融合論に基づく同和教育論の嚆矢となった。

 一九八一年部落問題研究所から発行された西の著書『同和教育の研究』に、三章・第二節「国民融合の前進と同和教育」として収録されている。                   

(岡本房雄)


『発達保障の根っこをさぐる』(一九九二年)

                             

この本が発行されたのは、一九九二年七月。この本をまとめるために、執筆者一同は何回も集まって討議を重ねたことを思い出します。そしてその時点で到達していた障害児教育運動の立場から、それまでの歴史的経過をまとめたのがこの本です。盲・ろう学校とともに障碍児学級での実践も含まれています。

 一九六〇年代のこと、障害者(児)は生きる権利、平等に学び、しあわせを追求する権利を持っていることを、自ら主張できる人間になる、そういう教育をしなければ本当の教育とは言えない、ということを当時の和歌山の盲学校、ろう学校の教師たちが気づき、その実践を全国教研に持っていって発表する、ということを始めました。

 発表した私自身も、教研に参加した全国の教師たちに何か異物のような目で見られたことを覚えています。

 しかしその後、障害者自ら権利主張をする運動が広がり、そうした運動の成果を受け、その後日本の障害児(者)をめぐる状況は大きく変わりました。障害者の権利を当然のこととして受け入れる社会へと大きく変化していきました。

こうした中で、二〇一六年夏、相模原市の障害者支援施設で多数の障碍者が殺傷された事件がおこったことは衝撃でした。犯人は今も「障害者は生きるねうちがない。社会に迷惑をかけるだけの存在だ」との考えを持ちつづけているということです。

「障碍者が生きる権利」を基盤とした障害児(者)教育と施策、その理念の普及は、いまなお喫緊の課題であり、和歌山の運動はその先駆だったのだと改めて思います。

 しかし他方、当時の実践は障害児への教育理念を作り上げることに熱心だった反面、具体的な年齢や発達段階に応じた教育目標に沿った日常的な教育実践に目を向けることに、まだ至っていなかったという弱点もありました。それはこの本のまとめをした市川純夫さんが指摘されている通りです。

 そういう限界をもちながらも、読み返してみて、多くのことを教えられる、普遍的な理念を追求した歴史的な文献であると思います。   

(井関奎一)




# by minkenundousi | 2019-06-03 17:21 | Comments(0)

加藤元昭による解題

岡本佳雄 

『デンスケの教育論―せつなさへの共感―』                    

 

本書は、岡本佳雄が、二〇年間の小学校教師と一九年間の和教組専従役員(教文部長)の経験を振り返ってまとめたものである。その内容を貫いている「せつなさへの共感」という岡本の教育観は、教師として大切にしなければならない基本的な姿勢だと教えられる。

 全体は、次の一一章からなっている。

一  教師になりたいと思わせてくれた二人の先生 

二  親への共感・子どもへの共感

三  問われる親の生き方

四  自立を育てる子育て

五  子どもを変えたお母さんの夜勤

六  子どもの切なさ

七  犯人さがしは教育ではない

八  子どもが主人公になる学校づくり

九  親と教師と地域が力を合わせば

一〇 性意識と性教育

一一 登校拒否について

この中から二つのエピソードを紹介しよう。

<つらいことを語り聞かせて>

 夫が蒸発して、昼は工場現場で、夜はバーで働いて小学生の男の子S君と女の子Yさんを育てている母子家庭のお母さんの話。このお母さんは、まわりの励ましで子育ての勉強を始め、「親の悲しいこと、つらいことはどんなことでもかくさず、子どもに教え、知らせて、育てる」ことの大切さを学ぶ。そして、忙しい中でも子どもに語りかけた。

「バーで働いていると、いやでいやでくやしいことがいっぱいある」

「やめたいけどやめられん。わがら三人暮らすにはお金がいるやろ。」

「辛抱できんようになったら目をつむって、おまえら二人の顔を思い浮かべるんや」

S君が進学した中学校は「非行」の嵐が吹き荒れていたが、こうして育てられたS君は、教師たちがびっくりするようなたくましい生活態度で中学生活を送ったという。母親の子育ての姿、その母親のもとでたくましく成長していく子どもの話は感動的だ。

<お母さんの夜勤>

仕事が忙しくて、二人の子どもの子育てが大変な夫婦の話。共働きをしながら子育てに頑張っているお父さんが、ある時、母親の仕事を見せるために二人の姉弟を連れて、お母さんが準夜勤務(午後五時~午前一時まで)をしている病院へ行く。

白衣を着た母親は、点滴の注射液を持って病室に入ったり、急ぎ足で詰所へ戻ったり、また病室へ入ったりしていた。最初、子どもと顔を合わせた時だけ手をあげて笑顔を見せたが、後は顔も見ないで仕事を続けた。緊張した表情で忙しく立ち働いている妻の仕事ぶりを見て、父親の態度がすっかり変わった。子どもたちもまた母親を見る目が変わっていき、生活態度が変わってきたという。

岡本は、親が自分たちの仕事の様子を語り聞かせ、見せて、子育てをする必要を強調している。

……………………………………………………………………

上からの教育改革が強引に推し進められる中で、子どもたちの生きづらさや学びづらさがひどくなっている。親と子と教師の切なさも増している。いまこそわれわれ教師は、父母・地域と共同して子どもを守り育てる取り組みを強める必要がある。そんな教師にとってこの書は必読書だと思う。(一九八九年 部落問題研究所発行)   (加藤元昭)


藤田五与

「私的な和歌山県民間教育運動史の試み」

 藤田五与「私的な和歌山県民間教育運動史の試み」は、藤田の教師としての出発から成長、紀南作文研究会や和歌山県民間教育サークル連絡協議会の結成とその歩みについてエピソードを交えながら書き綴ったものである。

<第一部 教師としての出発>

 一九四六年一月、藤田は、白浜国民学校助教として教師のスタートを切った。戦後の混乱の下での学校だったが、自由な雰囲気があり、藤田は用紙を工面して文集「若葉」を作った。そのうち藤田は民主主義教育研究会発行の雑誌『明るい学校』を見つけ、定期購読を申し込み、民主主義的な教育運動・組織とつながりを持つようになる。

<第二部  紀南作文教育研究会の成立>

 一九五一年九月一六日、藤田は真鍋清兵衛氏と共に、十数人の『教師の友』読者に組織の結成を呼び掛けるアピールを送った。「われわれは強固なる団結と緊密なる連絡により民主教育の支柱とならねばならぬ」と。

そして、一〇月七日、江住小学校に、藤田・真鍋・佐藤昭三・川合功一の四人が集まり、『教師の友』紀南グループが結成され、『紀南教育』が発行されることになった。 

 五二年五月一〇日、日本作文の会の今井誉次郎氏を招いての研究会終了後の懇談会に三〇数名が参加し、仮称「教師の友」紀南グループは、「子どもを愛し子どもを守る基本線に立ち、生活綴り方による教育方法を研究し実践する会」として、新しく「紀南作文教育研究会」として発足することになった。

 一九五三年二月、田辺市において、民間教育の連絡組織を考えて「教育科学研究和歌山県連絡協議会」が開催されたが、組織の結成までには至らなかった。

<第三部  勤務評定反対闘争>

 和歌山県下で、民間教育運動は責善教育との統一を図りながら着々と前進していった。一方、勤務評定が愛媛県に次いで強行されようとしていた。民間教育をすすめていた教師たちは、民主主義教育を弾圧し、教育を反動政策に奉仕させようと企んでいるのだと見抜いて、勤評反対闘争に立ち上がっていった。

 一九五八年八月二九~三〇日、紀南作教第七回大会に合わせて民間教育の県連絡組織を発足させることになった。しかし、その前夜、和教組幹部が逮捕されたため参加者は少なかった。ともあれ「和歌山県民間教育サークル連絡協議会」は発足した。

<おわりに>

 藤田は、「勤評闘争を通っていない若い人たちが民間教育を背負って歩み始めている」と書いているが、管理教育が強力に進められる今日、民主主義的教育を進めようとする皆さんにぜひ読んでもらいたいと思う。(『季刊・教育運動研究№4』一九七七.四 あゆみ出版)


# by minkenundousi | 2019-06-03 17:13 | Comments(0)

森教二解題

御坊小学校『学年新聞 大地』

この冊子は、一九六四年四月から翌年三月まで毎週一号ずつ発行された、御坊市立御坊小学校五年生の学年新聞を一冊にまとめたものである(発行は、翌年八月一五日)。この学年を担任した七名の教師が発行し続けた記録である。

創刊号に、「この学年新聞が『どうして必要なのか』またみなさんの学校生活にとって『どれだけの助けとなるか』――とそれはすぐ答を出すより、みなさんの力によって六年生になる日までの『よき友』であるよう、みなさんの協力をお願いします。」とある。この学年新聞『大地』がなぜ必要で子どもや保護者にどんな恩恵をもたらすかは、一年間の大きな狙いを学校・教師の側からのではなく読者に考えてもらうことから始まっている。

 子どもたちの声(作文やアンケート)や保護者の声(アンケート)(五年生の教育方針になるほどの貴重な意見)、家庭訪問での子どもの家庭での位置を知る教師の手記などが載せられている。

 『未来につながる子ら』(島小学校の教育実践を描いた映テキスト ボックス:  画)を見たあと、御坊小学校でも島小学校のような学校にならないのだろうかという感想も寄せられる。それからは、総会の時の「テストがあって授業がない。授業があっても教育がない」という提案の後に「学力」「いじわる」「通知簿」問題を提起している。

 『大地』一〇号には「『大地』は単なる『新聞』でもなく、また、ただの『文集』や『学校通信』『おたより』に終わることもないでしょう。」とある。『大地』の必要性を「『大地』によって五年生の子たちと父母・教師の心を結ぶための今ほど自覚した父母たちの先進的な役割」が要求される時はないと、ひとつの『大地』の意義を述べている。

 五段階相対評価の成績簿から新しい通知簿になっての「力のはいらない通知簿」「小首かしげて」という率直なわからないという意見、逆に、テストの点数だけでなくその子の特性なども考えられる味わいのある通知簿だという意見もある。その後、二学期になっても、「点数制がよい」「学力低下にならないか」「評価の位置づけがわからない」などの意見を掲載した後、「家庭学習調査」を行っている。

 三学期の「お別れ遠足」は白崎海岸へ行く。その準備として万葉集(詠み人知らず)の歌をもとに遠足の意義を学んでいる。

 最終号には、「五〇号の編集を終えて」と題して川出次信氏が書き、第一号に掲載した「五つのちかい」をふりかえっている。「一.じょうぶなからだと心の強い子になろう。二.おちついて、しっかり考え、だれにでも、はっきりいえる子になろう。三.正しいことを、やりぬく勇気のある子になろう。四.広いきもちで、みんなのしあわせをねがう子になろう。五.みんなと、なかよく、はげましあっていく子になろう。」三月のPTA委員会と総会で、こころゆくまで歌ったり、ダンスをした。
一口に、ダンスや歌と言っても、簡単にできるものではない。それができたところに重要な意義があると述べている。   (森教二)


佐々木賢太郎『体育の子』 

佐々木は、一九四八年から白浜中学校勤務し始めて、一九五一年紀南作教に参加した。

旧版『体育の子』(一九五八年)に集録されているのは、一九五二年四月からの白浜中学校での実践と、一九五四年と五五年の岩田中学校での実践の記録である。そのなかで、「ひろたかの記録」は『紀南教育』七号と八号(一九五二年四月~六月)に掲載されたいちばん古い記録である。新版『体育の子』(一九七一年)には、一九五六年から五九年三月までの朝来中学校での実践も加えられている。

佐々木は、体育教育の実践の中に生活綴方的教育方法をふんだんに取り入れ、授業中にも尻ポケットから用紙を取り出して生徒たちに書かせている。

佐々木は、勤務評定反対闘争の後一九五九年四月、日高郡の南部中学校に異動し、片道一時間半の通勤をした。熊野高校に勤務していた時、教え子の一人が腸ガンでなくなっていく前、「佐々木先生は必ず会いに来てくれると言いつつ亡くなった」と、その母親から伝え聞いたことなどを鎮魂と冥福を祈る意味であとがきに記している。

中森孜郞氏(宮城教育大学名誉教授)は、退官の最終講義で、佐々木賢太郎の『体育の子』を取り上げて次のように話している。

「私は一体育教師として現場にとびこんでいった。その頃、私が出会ったのが和歌山県の中学校体育教師、佐々木賢太郎の『体育の子』という実践記録であった。佐々木の実践は、戦前の体育への反省に立ち、生活綴方の教育理念と方法を体育に生かそうとするものであった。そして、まず第一に、生命を守り育てることを保健体育の実践の根底にすえ、第二には、体育の基本的役割はからだづくりにあるとした。第三は、子ども自身が自らの体を守り、からだづくりに立ち向かう主体となるために、認識活動と身体活動の統一をはかろうとし、そのために書かせることを大切にした。第四には、からだが弱く、体育の苦手な底辺の子どもを中心にすえ、一人の悲しみや喜びをみんなのものとする集団づくりをめざしていた。そして、人間性を喪失した機会的な技術主義に陥ることを戒め、『体育の教師は体の技師であると同時に魂の技師でなければならない』ことを強調した。」

今日、体育教育に取り組む時、まず『体育の子』を学習することから始めてほしいと思う。

(森教二)




# by minkenundousi | 2019-06-03 16:55 | Comments(0)